仙台のギター教室に通ったけれど

定年退職は心の定年ではない

私は2年後に31年間も勤めてきた会社を去ることになっています。
定年退職です。
私はこの日を境に、目の前から31年の過去が消えて無くなります。
それまで会社や家族のためと思いがんばってきたものです。

 

この虚しい気持ちが私の心の中で騒ぎ始めたのは半年前になります。
私にとっての定年退職は、人生のすべてが消え去ることと同じだったのです。
この時、退職後の人生がどうなるのか、私は不安に襲われていました。
何もすることがない日々に空虚を感じていたのです。
それから暫くの間、私は鬱々として日々を過ごしました。
ところが、ある出来事から定年後の人生が少し楽しく感じようになったのです。

 

それは半年前のことになります。
いつものように妻と2人で休日の買い物に出掛けました。
「おとうさん、定年後のことをそろそろ考えてくださいね。わたし、朝から家でゴロゴロされるのはお断りですから。せめて家事ぐらいは手伝ってくださいね」
車の中で突然妻からこんなことを言われたのです。
その頃ちょうど退職後のことで大きな不安をもっていたため、私はショックを受けました。
私の定年退職後の就職先は家事になるのか。
正直、逃げ出したい気分になりました。

 

それから数日後のことです。
その日は部長会議が早めに終わったので久しぶりに駅前にある煉瓦作りの古い喫茶店に入ってみました。
マスターは白髪にあご髭を伸ばした品の良い初老でありました。
店内には私以外に1人しかいません。
私はマスターが運んできてくれたコーヒーをゆっくりと啜りました。
その時です。
店の奥にある椅子の上に、今は懐かしいアコースティックギターが置いてあったのです。
私はコーヒーカップを口につけたまま瞳を大きく拡げました。

 

そうだ。
ギターを始めてみよう、学生の頃に出来なかったことが蘇ってきたのです。
早速、私は携帯でギターを検索してみました。
今時は凄いですね。
ギターのキーワードだけでたくさんの情報が入ってきました。
そして私は喫茶店の近くにギター教室を発見したのです。
私は喫茶店を出て、このギター教室の入会案内と申し込み用紙を貰いに行きました。

 

私はギター教室で貰った書類を鞄に入れ家路につきました。
道中私は大学に通っていた頃のことを思い出していました。
あの頃は学生運動が盛んで世の中が騒がしい時代だったのです
そして当時、流行っていた歌がかぐや姫の『神田川』であります。
私はこの『神田川』が大好きでギターを弾くことに憧れていたのです。
しかし、私にはギターを買う勇気がなくいつの間にか熱が冷めていったのです。

 

私は家に着いてからギター教室のことを妻に話してみました。
「お父さん、できもしないこと言わないでください。不器用な人にそんなことができるわけないでしょ。後になってギターが邪魔になるだけ、冗談はよしてください」
長年連れ添った妻からは当然のように反対されました。
でも私は諦めることができなかったのです。
その週末、私は独りでギター教室へ申込みに行き、その足でギターを買いに行きました。
家に戻った時に妻から叱られました。

 

そして仙台のギター教室へ

 

翌週から私はギター教室へ通うようになりました。
まあ、これには大変苦労しましたね。
小学校から高校まで私は音楽が苦手だったし、妻に言われた通り不器用であつたからです。
指が思うように動かないのです。
それにギター教室へ通っている若い人たちは、どんどん上達していきます。
私は会社で部長にまで昇進したプライドからでしょうか、若い人たちの中で恥をかくのが嫌になってきたのです。
それから1ヶ月ほど過ぎた辺りからギター教室へ行くのが億劫になりました。

 

ここで私はギターを諦めてしまうのか、仕事中も悩むようになりました。
そこでギターをキーワードにして再び検索をしたのです。
そして今でも大事にしている2枚のDVDを探し出したのです。
このDVDにはギター初心者用の内容が詰まっていました。
その後、妻にギター教室を辞めることで怒られましたが、私はギター教室からDVDへ切り替えたのです。
これで私は若い人の前で恥をかくことがなく自由にギターの練習ができました。
それから私はテレビの前に座り、2日前に届いた2枚のDVDを使って毎日1〜2時間集中してギターの練習をしました。
「おとうさん、ご近所に迷惑だから静かにギターを弾いてください」
私はギターを静かに弾ける訳がないだろうと妻に怒りを感じながら、とにかく練習に力を注ぎました。

 

努力の積み重ねが成果になる

 

それから暫くして私はしどろもどろですが、『神田川』を弾くことができたのです。
「おとうさん、凄いわね。弾けるようになったの。なんだか仕事をしているときより、楽しそうね。良かったじゃないの」
はじめて妻からギターのことで褒められたのです。
それから私はDVDに入っている『なごり雪』や『上を向いて歩こう』などの定番曲も練習するようになったのです。
妻に褒められた影響もありますかね。

 

我が家には2人の娘がいます。
すでに2人とも嫁いで子供がいます。
私の孫になりますが、これが娘より可愛く見えるのです。
おじいちゃんの七不思議ですね。
そしてこの孫がときどき我が家に遊びにくるのです。
私はこの日だけはギターの練習をしないようにしていました。
なぜなら孫と娘の前で恥をかきたくないからです。
そのような日はギターを押入れの中に隠します。

 

「おじいちゃん、最近、ギターが上手に弾けるようになったのよ」
突然、妻が娘と小学生の孫に話し始めたのです。
私はこの場から逃げ出したくなりました。
「おじいちゃん、聴かせて、聴かせて」
「おとうさん、わたしにも聴かせてよ」
妻の一言から大変なことになりました。
私は新入社員がはじめて配属先で挨拶するような気分になり顔が火照ってきました。
それから妻が押入れに隠していた私のギターを持ち出してきたのです。
この時、私は心臓が破裂するくらい恥ずかしくなりました。

 

それから私は仕方なく孫と娘の前でギターを弾くことになりました。
『なごり雪』『上を向いて歩こう』を弾き、最後に大好きな『神田川』を弾きました。
演奏が終わった時、私は孫と娘から大きな拍手を頂いたのです。
この時、諦めずにギターを続けたことに、はじめて満足感をもったのです。
「おじいちゃん凄い、『ハナミズキ』が聴きたい」
孫からリクエストが言われたのです。
でもその曲は知らないし、今の実力ではこの3曲で精一杯だったのです。

 

「おじいちゃん、今度、私が来るまでに練習して『ハナミズキ』を聴かせて、約束だよ」
私は、なかば強制的に孫と約束をしてしまいました。
でも、この約束が仕事では味わうことのできない楽しい気分に私を導いたのです。
それから私は仕事以外にギターという趣味ができ、2年後の定年が楽しみになりました。
たぶん、その頃には孫や娘だけでなく、もっといろいろな人たちに聴かせられるまで成長しているだろうと思いました。